メモ2
2004年8月12日人がいることによる、その人の存在意義。
ある人と話していてそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
自分の生きる意味、今ここに存在している意味、そこまで大げさでなくても、誰かにとっての自分のいる意味、これまで一緒にいれた意味。
私たちは、考えたところで答えのでないそんなことを考えもする。
確か、五木寛之氏の書いた「人生の目的」という本の中には、「人生の目的を見つけることが目的なんだ」みたいなことが書いてあった。
そして、このテーマに関して、恐らく考え方・とらえ方は人それぞれなのだろう。なかには「生きる意味なんてなくていい。そこにいるだけでいい」という風に言う人もいることだろう。それに対して否定をするつもりは全くない。
けれど、私たちは「生きる意味なんて、自分の存在する意義なんてなくてもいい」と思いながらも本気でそう思えないというところがあるんじゃないだろうか。
だからこそ、自分の好きになった人の中に自分の居場所を見つけようとしたりするんだと私は思う。
そうすることで、自分の存在を自分自身以外の誰かによって認められることを願うのだ。
しかし、そういう結論に達したとして、次に出てくるのは「果たして自分は相手にとって”認めてもらえる”だけの存在なのだろうか」ということだ。つまり、相手にとって自分はプラスなのか?ということだ。
とりわけ相手の存在が自分の中でプラスなのであれば(つまり相手のことが好きなのであれば)やはり相手にも自分の存在がプラスであればいいと思うに違いない。
そして、そう考えると、必然的に「自分は相手に対して何を与えられただろう?」という風に考える傾向にある。
そこで、「自分はこれこれ相手にしてあげれた!」と自信満々に言える人間ばかりではないわけでおそらく大半の人は、自分が相手に対してそれほどのことをしていないと感じる。
その結果として、「自分には存在意義などない」という結論を導いてしまうのだ。
でも、果たして本当にそこに存在意義はないんだろうか?
相手に対して何一つ与えられなかったというのは、存在意義の消失につながるんだろうか?
私は違うと思う。いや、絶対に違う。
なぜなら、与える側の人間の存在というのは、与えられる側の人間が存在するからこそ、存在意義が発生するのであって、全世界のすべての人間が与える側の人間であるとしたら、そこには何の意義も発生しないからだ。
つまり、与えられる側の人間が与える側の人間にとって、自分の存在意義となるのと同じく、与える側の人間も与えられる側の人間にとって存在意義となるのだ。
ん?なんだかややこしい?
それでは、簡単な例を挙げることにしよう。
あるところにAさんとBさんがいました。
Bさんは、非常に困っていて誰かに助けてもらわないとどうしようもありませんでした。
そんな時、心優しいAさんはそのBさんに救いの手を差し伸べたのです。
この時、Aさんの存在意義というのは”Bさんを助けることができた!”という風になる。これは多分、「あぁそうだなぁ」と納得できるに違いない。
しかし、ここで先ほどの説明からすると逆もまた言える。つまり、ここでBさんの存在意義は”Aさんに助けられてあげた!”という風になるのだ。えっ?と思う人もいるかもしれない。しかし、よく考えてみると、BさんがいなければAさんは自分自身の存在意義を得ることはできない訳で、それを存在意義の為にBさんの存在は必要不可欠なのだ。
そう、ここにBさんの存在意義は確かに存在する。
言葉遊びじゃないか、そう言われると答えを翻してしまうのだけど、私としては片方が存在意義を得たとき、もう片方も必然的に存在意義を手にしているとそう思うのだ。
だから、「自分は助けてもらってばかりで、自分がいる意味なんてない」と言われるのあなたへ。私は決してそうだとは思わない。むしろ、二人の間で時間を過ごし何らかのやりとりがあったのであれば、そこには必ず何らかの存在意義はあったのだ。あなたがそう思えないとしても、絶対にそれは存在する。
では、存在意義がない場合はないのだろうか?
先ほどの論理からすると、誰とも接することなく、誰にも影響されも影響を及ぼしもしないのであればそこに存在意義は発生しないことになる。
そう、一人で全てが行え、一人で生きていける人間、そして自分のしていることが誰にも影響を及ぼさないのであれば、そこに存在意義は発生しないと言えるのかもしれない。
しかし、それですら”誰かにとって”という但し書きが必要なだけで、本当に存在意義がないのかどうかというのはその人の考え方次第だと思う。
存在する意味などなかったのかもしれない。
そう落ち込んでいるかもしれないこの文章を読むあなたへ。今、この文章を読んでいるということであなたは私がこうやって文章を書いたことに対する存在意義となっているのだ。
確かに、その人しかもってない存在意義というのは見つけるのが非常に困難かもしれない。自分の代わりなんていくらでもいる、そう思ってしまうかもしれない。
でも、それは誰もがそうなんじゃないだろうか。決して代わりのいない存在というのは非常に少ない。
でも、そう思うと同時に、私は誰も違う誰かの代わりをつとめることは決してできないと思う。どんな些細(かもしれない)存在意義だとしても、全く同じ役割を果たすことはできないに違いないと私は確信している。
この文章を読むあなたへ、いつの日かあなたがそう思えるようになる日が来ることを祈っている。
なんか手直ししたほうがいいって場所や
こっちの表現の方がいいとかいう場所があったら教えていただけると幸いです。
そもそもこんなん書くなとかはやめてけれ。
ある人と話していてそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
自分の生きる意味、今ここに存在している意味、そこまで大げさでなくても、誰かにとっての自分のいる意味、これまで一緒にいれた意味。
私たちは、考えたところで答えのでないそんなことを考えもする。
確か、五木寛之氏の書いた「人生の目的」という本の中には、「人生の目的を見つけることが目的なんだ」みたいなことが書いてあった。
そして、このテーマに関して、恐らく考え方・とらえ方は人それぞれなのだろう。なかには「生きる意味なんてなくていい。そこにいるだけでいい」という風に言う人もいることだろう。それに対して否定をするつもりは全くない。
けれど、私たちは「生きる意味なんて、自分の存在する意義なんてなくてもいい」と思いながらも本気でそう思えないというところがあるんじゃないだろうか。
だからこそ、自分の好きになった人の中に自分の居場所を見つけようとしたりするんだと私は思う。
そうすることで、自分の存在を自分自身以外の誰かによって認められることを願うのだ。
しかし、そういう結論に達したとして、次に出てくるのは「果たして自分は相手にとって”認めてもらえる”だけの存在なのだろうか」ということだ。つまり、相手にとって自分はプラスなのか?ということだ。
とりわけ相手の存在が自分の中でプラスなのであれば(つまり相手のことが好きなのであれば)やはり相手にも自分の存在がプラスであればいいと思うに違いない。
そして、そう考えると、必然的に「自分は相手に対して何を与えられただろう?」という風に考える傾向にある。
そこで、「自分はこれこれ相手にしてあげれた!」と自信満々に言える人間ばかりではないわけでおそらく大半の人は、自分が相手に対してそれほどのことをしていないと感じる。
その結果として、「自分には存在意義などない」という結論を導いてしまうのだ。
でも、果たして本当にそこに存在意義はないんだろうか?
相手に対して何一つ与えられなかったというのは、存在意義の消失につながるんだろうか?
私は違うと思う。いや、絶対に違う。
なぜなら、与える側の人間の存在というのは、与えられる側の人間が存在するからこそ、存在意義が発生するのであって、全世界のすべての人間が与える側の人間であるとしたら、そこには何の意義も発生しないからだ。
つまり、与えられる側の人間が与える側の人間にとって、自分の存在意義となるのと同じく、与える側の人間も与えられる側の人間にとって存在意義となるのだ。
ん?なんだかややこしい?
それでは、簡単な例を挙げることにしよう。
あるところにAさんとBさんがいました。
Bさんは、非常に困っていて誰かに助けてもらわないとどうしようもありませんでした。
そんな時、心優しいAさんはそのBさんに救いの手を差し伸べたのです。
この時、Aさんの存在意義というのは”Bさんを助けることができた!”という風になる。これは多分、「あぁそうだなぁ」と納得できるに違いない。
しかし、ここで先ほどの説明からすると逆もまた言える。つまり、ここでBさんの存在意義は”Aさんに助けられてあげた!”という風になるのだ。えっ?と思う人もいるかもしれない。しかし、よく考えてみると、BさんがいなければAさんは自分自身の存在意義を得ることはできない訳で、それを存在意義の為にBさんの存在は必要不可欠なのだ。
そう、ここにBさんの存在意義は確かに存在する。
言葉遊びじゃないか、そう言われると答えを翻してしまうのだけど、私としては片方が存在意義を得たとき、もう片方も必然的に存在意義を手にしているとそう思うのだ。
だから、「自分は助けてもらってばかりで、自分がいる意味なんてない」と言われるのあなたへ。私は決してそうだとは思わない。むしろ、二人の間で時間を過ごし何らかのやりとりがあったのであれば、そこには必ず何らかの存在意義はあったのだ。あなたがそう思えないとしても、絶対にそれは存在する。
では、存在意義がない場合はないのだろうか?
先ほどの論理からすると、誰とも接することなく、誰にも影響されも影響を及ぼしもしないのであればそこに存在意義は発生しないことになる。
そう、一人で全てが行え、一人で生きていける人間、そして自分のしていることが誰にも影響を及ぼさないのであれば、そこに存在意義は発生しないと言えるのかもしれない。
しかし、それですら”誰かにとって”という但し書きが必要なだけで、本当に存在意義がないのかどうかというのはその人の考え方次第だと思う。
存在する意味などなかったのかもしれない。
そう落ち込んでいるかもしれないこの文章を読むあなたへ。今、この文章を読んでいるということであなたは私がこうやって文章を書いたことに対する存在意義となっているのだ。
確かに、その人しかもってない存在意義というのは見つけるのが非常に困難かもしれない。自分の代わりなんていくらでもいる、そう思ってしまうかもしれない。
でも、それは誰もがそうなんじゃないだろうか。決して代わりのいない存在というのは非常に少ない。
でも、そう思うと同時に、私は誰も違う誰かの代わりをつとめることは決してできないと思う。どんな些細(かもしれない)存在意義だとしても、全く同じ役割を果たすことはできないに違いないと私は確信している。
この文章を読むあなたへ、いつの日かあなたがそう思えるようになる日が来ることを祈っている。
なんか手直ししたほうがいいって場所や
こっちの表現の方がいいとかいう場所があったら教えていただけると幸いです。
そもそもこんなん書くなとかはやめてけれ。
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